虚無のその先

私の人生だったり、その瞬間だったり

胸に抱えるもの

皆は、家族、友人や恋人に悩み事を打ち明けることができますか?

私は少し苦手です。これを言ったら相手が困るだろうな、と思ったら言えなくなります。

別に困るような内容では無いと思うけど、人それぞれ受け止め方が違うのはわかっているので、例えば世間話をする時も(どう伝えたら相手は困らないだろうか、こう伝えたら相手はどう思うだろうか)など、考え過ぎて結局自分の話したいことを2割程しか話せず終わってしまいます。

消化不良のまま解散し、家に戻り私は少し、落ち込みます。そして、何も考えたくなくなり、眠りに就こうとします、が、モヤモヤしたまま眠れるわけが無いのでSNSの世界へ落ちます。

 

人の反応、顔色ばかり伺い生きることは私の人生において深く刻み込まれ、今更取っ払うことなど不可能に近く、その度に私は人として生きることを辞めてしまいたくなります。

こういった思考に陥った時よくする妄想。

 

私は今、真夏の太陽に照らされた、ジリジリと熱いアスファルトの上に落ちた、一滴の水。

一瞬で蒸発してしまう、跡形もなく。

誰が気に留めるわけでもなく、ただひっそりと燃えるように熱い地面の上で、消えてしまう。

 

他人から見た自分をそれと重ねることで、なんとか精神を保っています。

本当はめちゃくちゃに叫びたい。怒鳴りたい。大声を上げ、大きくしゃくりあげ、泣き喚きたい。感情の赴くままに、全てを破壊したいとさえ思う。

でも私はもういい年齢の大人なので、そんな事をすれば世間からは白い目で見られ、家族からも鼻つまみ者にされてしまう。

だから、一滴の水になるしかないのです。

 

自殺について調べたり、行動に移したこともあります。

5〜6年ほど前にある場所から飛び降りたことがありました。

最近、レントゲンやMRIとかCTとかを撮る機会が増えて、言われたのが「あと数mmズレていたら本当に死んでましたよ。九死に一生ってやつですね」。

なんと反応して良いかわからず、ヘラヘラとするだけでした。

悔しかった。死にたかった。どうしてこんな思いをしてまで生きなければならないのだろう。

でも、ある意味で希望を抱くことが出来ました。技師さんのお陰で、私のやり方は間違えていなかったのだと確信を得ました。

もしも次があるなら私はこの方法で確実な死を手にすることが出来るんだ、と。

 

遺された家族や友人の気持ちを考えなさい、とか

そう言った生ぬるい言葉は別に要らないんです。

私は遺された側だから、気持ちを考えるまでもなく、この身をもって知らされているのだから。

そして、この気持ちは当たり前だけど何年も何十年経っても、消えることがないことだって理解しています。

それでも。

どうしたって、死への気持ちが薄れることは無いのです。

家族のことが嫌いだとか、恋人に不満があるだとか、そういう事ではなくて、ただ。ただ私という存在がこの世にあるという事実が許せないだけ。

死を持って全てを許して欲しい。許されたい。

この苦しみから逃れたい。生きている限り、いつまでもどこまでも追いかけてくる、生きていることへの恐怖。

 

失敗するのが怖い、とか

嫌われるのが怖い、とか

虐められるのが怖い、とか

 

そんなのって、生きてるからこそある悩みだと思うんです。

死んでしまえば、何も分からなくなる。だって、死んだ人と本当に会話したことがある人なんて居ないから。

逆を言えば、死んだ後どうなるのかが気になるから、死んでみたい。

死後の世界が本当にあるとするなら、そこには何が広がっているのか。天国や地獄なんてものが存在するのか。

もしかしたら、今ここは死後の世界であってもおかしくない。だって、誰も死んだ後のことを知らないのだから。

 

夢に死んだ家族が出てくるとか、もう二度と会えない人が出てくるとか、そんなのは脳の記憶の整理でしかない。だから、会ったことも会話したこともない芸能人などと会う夢だって見る。

 

でももし、死ぬ前にひとつ願いが叶えられるとするなら、私は子供が成人した姿をこの目で見たい。

どんな風になっていても構わない。私にはもう触れることさえ出来ない、私の命を懸けて産んだ子供。

全身全霊で愛した子供。

 

今、子供に会えるのならば。全てを投げ捨て、強く抱き締め、離すことはないだろう。

そして、その後、死を選ぶのだろう。

 

そんな妄想をしていれば、いつの間にか日付は変わり、毎日が過ぎて行く。

今のところ、これでいいのかもなって、何となくだけどそう思います。

 

来月で30歳になるのか…本当にこのままで大丈夫なのかな………(アスファルトの上の一滴の水になる)